私には、それを何度もなんども繰り返し読んだという本に出会ったことがない(もちろん専門にかかる書物や史料は別だが)。六五年の人生を振り返ってみて、そう思う。それは、私に読まれたその本に責任があるのでは、きっとない。
小学生の時は、伝記ものの作品をいくらか読んだが、通り一片の興味を越えるものではなかった。中学に入って間なしの頃、女の子たちが世界文学全集の何かを読んでの感想を実に楽しそうに語り合っているのを聞いて、何一つ読んでいないのを恥ずかしく思ったのか、女の子に負けてたまるかと思ったのか、ひとつ読んでやろうと、図書館に行って、借り出したのが、スタンダールの『赤と黒』だった。何の予備知識もなくそれを選んだために、すぐ後悔した。家庭教師ジュリアン・ソレルの退屈な恋物語と不倫という、退屈な内容もさりながら、三段組みの本は、なかなかページを捲られない。横文字の名前も記憶するのは大変だ。しかし、ここで止めたら負けやと思って、正確な記憶はないが、なんでも二か月ぐらい格闘したのではないか、ついに読み上げたのである。
その達成感が、一気に読書欲を駆り立てた。次に読んだのが『狭き門』、そして『罪と罰』『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『大地』と、名の知られた作品を、何の系統性もなくつぎつぎと、図書館から借りて読んだが、ふと気がつくと、我が家にも多くの本があった。武者小路実篤の、絶えず登場する野々宮に少々辟易しながらも全巻を読み、志賀直哉・漱石を読破し、谷崎源氏を読んだのは高校一年であった。夢中で読んだ。
読み返したいと思って、読んだのは漱石で、教授会に密かに持ち込んで、岩波の一巻から順に最後まで読んだ。『心』は気にかかり続けている作品であるが、私にとっての一冊は、やはり『赤と黒』と言わなければいけないだろうか。
(大阪大学名誉教授)