食卓の周辺 314号

 

月見

 九月二十三日次男淳が亡くなりました。私は三人の子どもに恵まれ、どの子も可愛がって可愛がって育てました。  次男は時折言っていました。「どの子も自分が一番愛されていると思うように育てるのが大事なのだよね」と。でも、そのなかでも溺愛したのは次男でした。周りの人によく気配りをする朗らかで心の優しい子でした。そして自分で一度決めたことは必ずやり通す子でもありました。

 六年生の夏休みのことです。「天草の大矢野の夢の島に舟で渡って、そこでステーキを焼いて食べてきたい」と言って聞きません。舟の往復便の時間を調べるなど準備周到に整え、「午後三時になっても帰ってかなかったら警察に届けていいから」と心配して反対する私を説得しました。その朝四時に起き、一人自転車で夢の島むけて四十キロ余の道程を走り続けた彼は、真っ赤に日焼けして約束の時間には帰って来ました。

 長男は外遊びが好きでしたが、次男は、家にいました。「外で遊んでいらっしゃい」と言っても私のそばにばかりいましたので、夫と相談して、六年生の秋、武道館の剣道部に入れました。このとき本人はしぶしぶでしたが、開講式に臨み、礼節を尊ぶ作法に感動したようで、激しい雨が降ってもバスに間に合わなくても、防具を担いで走って武道館に駆けつけ、一度も休むことなく通い続けました。

 済々黌高校に合格したときは、三年間、無遅刻無欠席で通すと宣言、熱があっても登校し、やり遂げました。 昭和電工に入社。シンガポールに四年間赴任していたときは、夫と私を招き二週間、あちこち案内してもてなしてくれました。またプールのある高層マンションの二十八階に住んでいて、私にプールで泳ぐようにと水着を買ってくれしきりに勧めますので、「淳ちゃんのために泳いだ証拠を」と夫に写真を撮ってもらったことでした。

 外資系のキャボットスーパーメタルに移ってからも営業一筋でしたが、「お母さん、心配しなくていいんだよ。僕はね、会社の机に座って電話一本で一千万、二千万の仕事をしているんだからね」と、私を安心させるように言っていました。「あなたのことを思って、うちに訪ねて来る営業の若い人には優しくしているのよ」と、私が常々言っていたからです。

 大変真面目な子で、不正なことは絶対しない子でしたから、最後は、購買部の統括マネジャーでしたが、安心して任せられた、と社長さんがおっしゃいました。

 十年前、とても便利なところにマンションを購入しました。九階のベランダからは富士山が望める快適な住まいで、昨年二人で青森旅行をして以来、上京の折には泊めてもてなしてくれました。ベランダや玄関のポーチに植木鉢を並べ、植物を育てる優しい子で、国内旅行やシルクロードの旅にも付き合ってくれました。

 亡くなった後判ったことですが、ユニセフ・マンスリーサポートプログラムに毎月二千円の寄付もしていました。 お酒が大好きでとても強くて、洋酒のボトル一本平気で飲み上げていました。お酒と煙草をこよなく愛し、「もう少しお酒をセーブするといいのにね」と言っても、最後まで好きなだけ飲みました。

 亡くなる前日、「仕事が溜まっているので、休みだけど出掛けるところ。帰ったら電話するから」が息子との最後の会話になりました。近くのステーキ屋で夕食をし、帰宅後洗濯機を回し、ちょっと休憩のつもりで、愛用のマッサージチェアーで横になり、眠ってそのまま亡くなりました。告別式には遥々熊本から古上さん、佐治さん、松村さん、藤田さんが駆けつけてくださいました。研究会の皆様のお励ましに厚く御礼申し上げます。(横田)

■編集=松元明美・横田幸子